甲州 koshu (14), 2008

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中枢ー末梢 末梢ー中枢

ある見方に従って分類すればするほど各カテゴリーはさらに分類される
細分化されると一挙に全体を把握する感覚が薄れる

ある分類をその見方に従って逆にたどってやっと論理的連携を知るのだが
見方をかえれば連携はダイレクトに身体によって見えることがある

いや、ある見方を違う見方にかえるだけでは今や不十分である
見方を見方でなくすことが、身体のくすぐったいような感覚を呼び覚ます

90年代以降くらいからか、身体論がはやった
精神分析と身体を結びつけようとする概念もあった

だがその少し向こうにあること
異なる次元の連携を身体感覚として感じなおすことはできないか
その感覚こそ身体を真に開くのではないか

例えば各臓器は決して独立に存在せず多臓器と連携している
それは科学的な見方からもいえる
そのことを一挙に把握できるような身体感覚を取り戻せないか

おそらくそれは太古から生物のなかにあるのかもしれないし
今、人間が感じることが困難な感覚かもしれない

人間を定義することはできないが
例えば医者であること、演奏家であること、写真家であることのまえに
人間が人間としてあることを今
身体が感受することが求められているように感じる
それは生き方に、新たな倫理につながる可能性がある

だが人間は歩みのなかにある
少なくとも歩みの果てにあるもの、そして古代からある身体的感受性を共存させることはできないか

それは例えばいわゆる身体能力の差異を遺伝子に結びつけないこととしてある
だが現状は身体能力に差があるのかというところから始めなくてはならない
それがおそらく身のまわりの現実として感じることだ
もっともっと広く考えるべきである

あらゆる次元のあらゆるベクトルの総和を一挙に把握する
そして同時に各々のベクトルを尊重する

末梢と中枢という区別はくせものだが
末梢にこだわることは同時に一挙に中枢を把握することでもある
皮膚が中枢のニューロンとおそらく切っても切れない関係にあるように

それは他なるものを感受することのなかにある
それは自らの身体を感受することのなかにある