京都 kyoto(4), 2008
外の雷と雨の音を静かに聴いて
ひとつぶひとつぶの雨の落ちる音の差異と強弱
雷の怒濤の低音に耳をひらきつつ
雷音と雷光との隔たりを感じつつ
愛知でも猛威を振るっている雨の当たっている人たちのことや
犬山のあの川は今の雨はどうであろうかと心はやはり落ち着かない
言葉を書きとめること
内省
言葉に導かれて
雷の爆音にたかぶる心を静かにして
時間をかけて何かを発見していく過程
だが内省とは別のあり方
何か別の言葉の在り方
ひいては世界の別の在り方があるかもしれない
そして書く言葉は文字
実際に手を動かし文字で書いていくその手は
ローマ字入力でワープロを打つ手より
言葉をはるかによく言葉として導くだろう
書が言葉の根源的な姿を心と身体で浮き彫りにすることだとしたら
そこには文字以前の言葉の音と
その音を言葉として発してきた人間の吐息があるはずである
そうした太古から文字が形成され徐々に変化してきたに違いない
とすればその背景に感じられるのは
自ずとつなぎつないで変化してきた人々の連綿とした営為
こうしてみると
文字にして言葉を書くということの根源的な姿は
これまでの人々の営為を背負ってその営為に敬意を払って
今を生きる私を通じてその吐息と音を詩にするということにあるだろう
そして詩はこの意味で音楽の根といってもよい
新しい言葉とは
この連綿とした営為をふまえて今ここに発せられる言葉にある
だがこの降り続けて止まない雨
この雷光の閃光と雷音の低音の時空の質的な隔たりを思うとき
今は一体どこにあるのか
そのような心の変化を経て
内省や思想や議論のための言葉とは違う言葉
感情のための言葉とは違う言葉のあり方が密かにしかし連綿と存在していて
それ自身が一つの世界であることに気付く
そうしてみてまた
雨のひとつぶひとつぶが地面に連打するその多様な音に耳を傾けると
雨は変化し続けている
そして雷光と雷音が一つの現象の違う形のずれであることにますます感じ入る
それを聴いている私がいる
そして思う
いかにそれが偉大であれ鋭くて意味のあるものであっても
一人の人間の思想をはるかに超えたもの
その根底にある大きな器であり
それを支える低音でありうねりであるような言葉があるのだということを
当然かもしれないが
私があるということのなかに言葉がある
それは人間が人間であることの必然への深い自覚なのだ
そしてその大いなるうねりの言葉を連ねて一つの詩にすること
その過程の基本はどこにあるのか
この鳴り止まないすさまじい雷音と雷光
そして変化し続ける雨のなかに
その在処を聴き取らなければならない