犬山 inuyama(16)2009
今日もまたわずかではあるが何かに積極的な身体がある この久しぶりの目覚めのような新鮮な感覚はどこから生じたのか 毎日家の前の落ち葉を竹ぼうきではいては一枚一枚の桜の落ち葉の色の変化を確かめ その微細さと多様さに驚嘆してみては 土の暖かさ腐葉土のまさにほどよい湿り気をこの手に感じ その土がなくてはならないという手の感触そのもの 言葉では言い当てることのできないある感じを 本当に久しぶりに力強い手応えとして感じているからだ 落ち葉の複雑さやこの土を握ったときの感触は身体の何かを呼び覚まし記憶と通じ合うのだが その過程で生じる途方もない言葉の空想や妄想のなかに 演奏への現実的な手がかりがあるように思えるのはどうしてか すべては間接的に身体を媒介してあらわれてくるようだ 音の次にこの音がくるというやりかた 音のいわば微分が時間を生み出して次の音が自ずからおとずれてくるというやり方 予期せぬ音に導かれるという器から離れて あるいはまた つくった音のはじめからのまとまりの姿 その積分を捉えつつ次の音を待つような作曲のやり方とも違って 音の和音でも連なりでもないように思えるが 音と音のぎりぎりの重なりそのものに時間に対するもう一つ垂直な次元が開いているように思われてきている 錯覚かどうかはっきりしないような臨場とでもよべるかのような 瞬間でもなく持続でもなく 問いが続くような音のあり方のさらに内側に入ることがどのようにできるだろうか 写真をとっているものであれば 数十分の一のなかに流れる滝と 静止しているようにみえて実は動いている木々 そしてそれらを撮って息を止めてかまえている身体の震えから 写す写されるの関係を超えた自他の同質性を 自他の区別を限りなく消滅させて観ることができるかもしれない この同質性のようなものから重なっている うまくいえないが 存在ということや いまここということとはまた違ったある入り口のあり方がないのだろうか 世界がいかにみえるかということや 世の中で生じているものごとに対する立ち位置や意識とともに歩く写真 私は世界をどう見たのか そういうことも大事だろうけれど 今の関心事は自然の重なり様その具合がいかに生じているかということかもしれない 写真もずっとああでもこうでもないと撮りあぐねている 今わかっているものや少しわかりかけているものと違うことをしてもどうかと思う 重なっている やはり不協という和音ではなく 和音ということからはなれた音の重なりのようなものどのように意識的に実現することができるのだろうか 人が自然のなかであらゆるものと重なっている その重なりそのものを象徴的に音のなかに体現していくことできるのか 偶然や必然の時間的展開 時間のアナクロニックな側面から生ずる 発見されるように経験されていく音が 人間にとってのみえなかった気づきをもたらすとするなら 音と人間の重なりのようなものから深まるものはあらゆる時間的ベクトルのうちにはないだろう それはやはり音を素材として扱うことでは全くできない そうした態度とは百八十度異なる位置にある 重なりと何度いってもしっくりこないのだが 土や落ち葉の代え難い感触からやってくるもの それはどこにあるのか さしあたりのありふれた空想をめぐらせば いつどこを問わず あらゆるものともの ものとこと こととことのあいだ もっといえば間隙を漂っているといえばよいのだろうか 間隙から何かの重なりのようなものがみえる 夏ころからどこか思っていたような間隙に立っていること うまくいえないが 重なりとはあらゆる現実や世界が遠くなるような「私」の病 離人症と全く逆にあるあり方 私ー世界 人間―世界をくつがえす あるいはそうしたくくりをなくす 自己とは無関係の強烈な手応えといってもいいのだろうか それに近いと思われるけれど 単なる身体反応でもないようだ