別府 beppu(10)2009
雨
となりの庭
桃色の梅
と書き出してもどこか味気ない
つまるところ
この手で文字を書いていないからだろうと思う
想像するに
弓をもつ手の感触が弦との接触ということの内側にあるのであれば
書の感触は筆と紙の接触のなかにあるのだろうから
筆と紙の質は大事なのだろう
そうしてみると文字をかくということは生きる過程そのものだろう
東京で新潟を撮っている宮島折恵さんの写真をみたからか
帰りの新幹線でふと良寛のことが思い起こされて
良寛の生まれた越後を再び訪れたくなった
良寛の文字をみていると
意味やその形態以前に
書かれた文字そのものに生き方が収斂されている
文字自体が問いと否定としてあるから
究極的にはどんな形容もできないように
そこにあるようにみえる
文字自体にその思想が表明されている
良寛が筆でそれを書いている姿と
筆先と手の動きや顔
速度
庵
春
雨音
音も書から学ぶことができるだろう
言葉のことをどこかで思っていながら
こんな基本的なことに
ここ数週間少しだけ本を読んでようやく気づいた
弦を擦り一つの音の時空をつくることは
一文字を書くことに匹敵するだろう
音は一画だろうか
それらを文にしていくということは
一文字一文字のなかに否定と問い
言葉の芯をとどめていくことだ
そうしてできた一つの表の問いの形は
裏の否定に密着している
であればいつ擦ってもその姿形は異なる
そのときさらりとかかれた文にも
選びとられた文字の裏側に
時を熟して未来に凝固していくであろうすべて
選びとられなかった他がある
写真にもどこか通ずる
それでは声の文字
文字の声
歌とは何なのだろうかと思う
自分の問題としてやっと
こうしたことはそもそもそれほど考えなくともよいのかもしれないけれど
書道さえあまりにも安易にパフォーマンスされるのを目にするにつけて
根源的な出自へと向かわざるをえない何か
私が生きているこの状況に要請されているような何か
問いがあるように思われるから
これからも時々こうして書いていこう
そういえば
今日は39の誕生日
偉大な先人がいかに偉大であるか知れば知るほど
どんどん進むべき道は未知となっていくけれど
自分のどこかから
何かに導かれて
楽器もまた少しづつ続けていけそうな気もちがしてきた