犬山 inuyama(7)2009

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岐阜駅の南側
加納宿というところをたずねた
とても遠い親戚と初めて会った

ついさきほど今日のニュースで流れていたが
御巣鷹山の飛行機事故の年に私の祖父母はともに他界した
全く思いもよらなかったが古いアルバムをみせていただいた
東京で一緒に過ごしていた祖父母の若い頃の非常に古い写真がでてきた
はじめに思ったのはなぜかわからないが
これは当時の普通の肖像写真だろう
故意を交えて撮られたものではないだろうということだった
実生活がどんなものだったか
無論本人達にしかわからないのだが
その一枚の写真から喚起されるものは豊かで
若い祖父母夫婦の幾重もの立体的な実像であった
強い実感がともないはじめ
遠い親戚の家という微かなつながりが後押しして
身体の記憶が連鎖し始める
あの夏の祖父の死臭が鼻を裂くようにやってくる
そこから死の間際の出来事の記憶が蘇る
木の階段を家族が上がる足音
扉のきしむ音
畳の肌触り
当夜の月
壁にあった眼底のパネル写真は宇宙の内部のように心に映っていた
そしてあの日の祖父の最後の脈
この親指で直に感じた感触
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歳のとき曲がりなりにも漠然と医者になろうと思った契機は
脈の徐々に衰退していく律動の
生死の境界に祖父がまだ漂っていた
祖父をまだ生かそうとしていた
あの力なのだった

臓器移植が事実上進んでいるが
この指の感触とはいまだ折り合うことがない
各々の家族の気持ち
とりわけ気になるのは移植手術に執刀する医師たちは
一体どのような気持ちのなかに立ってあるのだろうかといつも思う
そしてほんの数秒の御巣鷹山の遺族のニュース映像が頭から離れようとしない