granada(5), spain 2008

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ただあらわれるということ
空しい心に

気と記憶への意思すらもつことなく、とも断ずることもできずに、ただやればよいのでもなく、あらわれる何ものかをひたすら大事に

あらわれる自然が、あることを感ずるため、自然を身体が知るために

心を空しくするためではなく、心が空しくなることに導かれるための場を心にかけて

だが身体の功利主義という身のまわりの現実の空虚さに浸されつつ、心と身体に対する経済的な、効率的なあり方に対処するために、私が私であることを決してやめることがもはやできないことをも同時に覚悟しなければならない

なぜなら私は今まさにそうした現実と日常のなかに生きているからであり、どっぷりとそれに浸かって心と身体が動いているからである

それはある意味において無垢であり、ある意味において無垢から遠くかけ離れた、一つの社会的現実に著しく制御された心と身体なのであるが、その両刃の身体を身体そのままに、引き受けることから始めるのが、この期に及んでもやはり一つの方法と思う

意思とは意志によって何かを特別に志向することではなく、身体の思考に押し出されてただ心に思うこと、思考することもまた身体の一部に過ぎないとしつつ、思考の過程をそのまま身体の知におろすこと

心を空しくする特別な技術があるわけでもなく、ある心理的な技術によって心が空しくなるわけでもなく、それはある道としてあるだけだ

今の現実がある種の虚構的な空虚の上にあるとたとえ断ずるとしても、私の個という一つの外部から私自身を俯瞰しないために、今の身体を引き受けることは不可欠なのであり、それは言い方をかえれば、今を生きる責務だ

きわどくバランスを保っている身体を引き受けることのなかに、何かがあらわれてくるかもしれない
そのあらわれを聴くことができるかどうかが、今年の個展の意味かもしれない
昨年は総じて、聴こうとすることにやはり終始していたのかもしれない
聴こうとすることではなく、聴くことそのものが新たに課せられている

何かしらのきわどい均衡のなかに音と写真を聴くこと、たとえば即興か作曲かということでもなく、音に対して一歩づつ深くなるための、身体の道と過程をそのまま踏むことである

こんな手始めのようなことでよいのだろうかと思いながらも、その微かな過程そのものが「明」であると信じ、音の糸口は脈絡のないような脈絡において意思していくことのなかにふと生まれて、糸が音となっていく過程を、そして日常の問いそのもの、問いに対する回答ではなく問いが発せられる速度の変化と過程を、大事にすることから、最初からまた始めよう

休息をできうるかぎり大事にして、残された日常を何よりも生きることだ


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追記

日常の私を疑うということは常に必要だ。まして個展の前だからそういうことは不可欠である。まだ一ヶ月前だから、あるいは一ヶ月前というのに漠然としている何かが大いにある。個展にあたって、あって当然ともいうべき技術が追いつかないという面もあるが、それ以前の根本的問題がある。雑多に忙殺されざるをえない毎日ではあるが、弦を一年半ぶりにかえたことが個展に向けて考える契機となった。それは個展にむけて、どこかに渦巻いていて最終的にたどり着かないような何かを、身体が感じ取るための契機だった。たどり着く目的地を求めるのではなく、その契機のなかに根本的な問いが眠っている。

ブログは、その日に即して何かを考えるための訓練の場としてあるが、結果を第一義的に求めない点が良いし、時折は恥を忍びつつもどうにか、とにかく実直に書き連ねてきている。個展もそのようなものとしてありたい。ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアがブログを知っていたらどう使うだろうか、滑稽で使わないのだろうかと時々想像してみる。会場に、今の私には過分かもしれないが、何かしらのペソアの詩を添えたいと思う。私と私のまわりにある現在のために。

昨日ガレリアQにおもむき、今回の個展のダイレクトメール作成を牟田さんから紹介いただいた佐原さんにお願いした。佐原さんは十分な時間をかけて写真をみてくださって、久々にこれほど自分の撮った写真をみてくれた方がいたということに心を動かされた(無論どの方にもそうしていらっしゃるのだろう)。終電ぎりぎりまで中身のある話をして楽しかった。昨年もそうだったが、こういう場は私にとって本当にうれしく大事な場である。

スリリングであるはずの写真という場が、なぜどこかしら軽薄なものになってきてしまっているのか。写真という一枚の紙の向こう側にみえるものまでをも、みようとするのもまた大事ではないか。そこには撮影者と世界との関わりと対話が必ずある。撮影者とは何ものなのか、何ものでもないのか、世界はその撮影者に対してどのようなものごととしてあらわれてくるのか。その対話のなかにやっと、写真は写真であることができる。