京都 kyoto(12), 2008

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今日はいい天気だった
やわらかさの芽生えた光
涼しい朝の風
残響はどこか静かだ
乾いた大気
落ち着きを取り戻しつつある
今日という日
空間に漂う
数々のうごめく時の場のなかに
光と大気が日々異なって感じられる
その媒体を音がすり抜ける

私の出す音
そしてやってくる音は
私という一つの場の状態のみならず
光と大気にも
左右されているのは確かだ

この乾いた大気と
暑く柔らかい光につつまれるように
音がやってくるそのあり様を
耳そして身体は確かに受け入れている
そのとき心は落ち着く

だがその穏やかな大気と音の受容のなかにすら
死があらわれでることがある

私を取り巻くすべてに私が抱かれている
その時空間においては
考える意識だけが居心地の悪さとして残され
現実のすべての責務が果たされたとき
意識は次第に心に吸い込まれて
身体だけが残る
その身体のなかにあらわれる死

存在というしみ出す力そして一つの暴力
その存在の力から召還されるような時空から
私を必死に防備するために働いていた
様々な意識そして無意識が
心に変容するその過程に
このうららかな大気と光のなかに
忽然とあらわれでる身体
それは記憶ではない生そのものであり
一つの可能性であり続ける

その私の身体こそが身体
剥き出しの身体
無防備であることが唯一の防備であるような
生の身体

剥き出しにされた生の身体は
身体そのものによって
存在のしみだしへ参与する形となるのだが
言葉を超えた意思の力によって
存在のしみだしに
かろうじて拮抗しうる

その可能性とは
私の意識とは異なるあり方のなかにある
私ではない意思のなかに
存在からの召還を拒み続ける私のなかの
私ではない意思のなかに生まれる
それは不可能性のなかにある身体の意思

不可能であることを可能にするそのような身体の意思と
そこに必然的に生ずる挫折のなかにこそ
不可能性すなわち死が
存在という力への一つの抵抗の形が
聴こえだす

光と大気のなかを通過する音の受容
そして私から出る音

生の身体の持続する可能性のなかに
存在という暴力へ抵抗する音の意思が芽生える
それはもはや私の音ではない

音によって存在をさらに存在たらしめず
存在をうち消すことによって
一つの静寂の場を開くこと

音という存在の力を存在と拮抗させ
その裂け目に
死の不可能性を聴くこと

私ではない身体の意思に降りては
それを持続すること

音の暴力に抗して音を聴き音を出すために


そしてまたこの仰々しい言葉たちもすぐさま、音の一つのあり方に注意しようとする意思の記憶にすぎなくなる。書いた言葉を体しつつ、そこから真に逃れて音を出すことのなかに、逆説的にもその方法の体現があるだろう。そうして長い時間をかけて、それがまさしく自然にできるようになるまで、ひとつずつやっていくほかないだろう。