別府 beppu(15)2009

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家路の車のなかでふと思い出したから何か書いてみる。そんな気安い書き方を少ししていこうかと思う。これならちょっとした心の余裕と時間さえあれば何とかできるかもしれない。エリック・ドルフィーが「音は消える、二度とつかまえることはできない」とあるライブ録音の最後に確かしゃべっていた。

音というのはそれ自身をつかんで手中にすることができない。写真も同じかもしれない。鶯にもそれぞれの鳴き方があり、非常にふくよかな響きの鳥もあればそうでない鳥もいる。しかしどちらの鳥がよりいい声だっただろうか。そんなことは容易くはいえない。音は一瞬で過ぎ去る。そして今日の鳴き声の記憶は来年の今日の声を心の底から待つかもしれないし、大事に今日の音を携えることでどうにか生きていくことはできるかもしれない。しかしながら音そのもののリアリティーはすぐさま消え失せる。音の記憶の反復は音の忘却という側面を同時にもっている。

音は消滅する。命も消滅する。だが「消息」というものが残された手紙ならば、一つの音も一つの手紙のようなものだ。音が残すものは音の記憶ではなく、手紙に書かれた問いのようなもの。そこに本質的に書かれているのは「君にこれがわかるか、これが好きか」ではなく、「ここにいる私とは何者か」という答えのない持続する問いだ。良寛はまさにこの問いを発している。人間にとっての音は人間の外部にも内部にあるものでもない。外部から内部へと動く摩擦、内部への一瞬の残響であり、消滅する音という出来事自体が音楽の軸をなす本質ともいえるかもしれない。そして音によって否応なく問われるのは奏者を含めた他ならぬ聴き手すべてだ。

裏返せば、もし弾き続けるとするならば、私の発する音によってそこに多種多様な問いが一体生まれうるのか。音に死が含まれるか、そこから生という問いが出現するかということかもしれない。このことは音楽は無音すなわち死を軸として生に寄り添うというこれまでの稀有にして神秘的な経験的実感を支える。そのために奏者はここにおいてもやはり音への嗜好的態度と記憶された音の漫然たる反復を避けなければならない。そして音楽への希求を保ち続けるには、無音という出来事がいかに現出しているのか、生活の一部一部の身体経験において見いだしていかなければならない。