犬山 inuyama(11), 2008

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場所によっても異なるだろうけれど世間には疲弊感がただよっている。私の心が新しくなれば、私の生きる現実もやはり変わるのだが、それは社会と全くかけ離れていることだろうか、本当のところは私にはまだわからないが、自分なりに努力していく他あるまい。

仕事をしだして年がたってきて、以前とは違うものの考え方をせざるを得なくなってきた。特に学ぶ立場から少しは教えるような立場に変わってきて、さらにこの状況下、考えこんでしまうような問題も多い。

他から影響されることと他から学ぶことは違うし、他に影響を与えることと他を教えることは違う。影響されつつ学ぶことはできるが、影響を与えつつ教えるということは洗脳に通ずるから、それは十分な注意を要する。教えることは、そこに学ぼうとする意思をもった他者がいなくては成り立たない。その意味では教えようとすること以前に、常に学ぼうとする態度こそが根本的に重要であるといえる。それが深いところで教えること、そして何か大事なことを伝えることにもつながる。

学ぶことは他なるものを我がものとするというのとは違って、他に照らして自分を発見し、発見したものを深めることである。これに尽きるだろうと思う。教えることはそこに一定の権威的作用は介在するかもしれないが、他を支配したり抑圧的に接することではなくて、自らの経験を軸として他者のなかにある他者性をひきだすことであるから、非常に難しいものを含んでいる。そしてこの学び教えるということがうまく機能することは、根本的に大事な何かを伝えるということの一番の始まりにあるという意味において、不可欠なことである。

学ぶことを通じて、それぞれがそれぞれの大事なことを心から他者に伝えていこうとする意思は、人間や社会が成熟していく上で一つの必須事項ですらあると思われるが、残念ながら、目先の利潤に眼がくらんで、自分にとって大事なことすらなかなか感じ取れないような社会になりつつある。利潤を追求することが一つの本当の価値になれるような人間もいるだろうが、そのようにどこかみえないところで強いられるような状況は、人間性を狭くさせている要因であることは否めない。

学んで深まれば深まるだけ広く他をみることができる。そしてその視野において他からまた影響され学ぶ。そして教えて伝えることがやっとできるから、学ぶ姿勢と教えるようになるまでの過程が非常に重要だ。特に人生のはじまりにおいて学び教えるということがうまく機能できないような、今日の閉塞した状況において、そこに居座っている疲弊感と閉塞感を受けとめることはさらに疲労を促進させる。一部ではもうそのことは破綻を来してきていると想像できるし、疲労や倦怠感はそれだけで強度があるからその影響力と伝播は大きい。

例えばそこから逃れようとして、世間一般や社会一般というものを自分と関係のないかのごとく外側に想定して、その仮面の現実から影響される一方では、ある惰性に陥ってしまったり、一つのものが全てだというような危険な夢想や幻想を抱くはめに陥る。あえてそのような惰性に陥ることを一つの価値観とする態度もあるだろうが、そのような態度に陥ることは自己欺瞞をまねくか、自らが神となって他からあがめられるという結果に陥ることも多いだろう。

一方でそのような社会や惰性から自らの身を守っていくことも必要なのであるが、他からの影響を一方的に遮断しようとすることもやはり不自然だし、自らの信念を死守することが悪い方向にいけば、次第に知らず知らず自閉してしまって別種の惰性に陥る危険があるだろう。

また社会に対していわば科学的な分析的態度で考えてみる方法をとるだけでは、この情報化社会においては情報を選択するための情報分析から始めることとなるから、情報過多と本当に必要な情報の不足の両極において、ついには判断停止という状況に陥りがちである。判断停止は結果的に現状を維持する方向につながってしまうし、中途半端で実体の伴いにくい知識だけ貪食して終わる。判断を下すということは人間にとって最も難しいことの一つだと思うが、判断を下さなければならないときは必ずある。そこに最終的にはその人間の信念がどうであるかという問題が介在してくる。そしてこの倦怠の時期においては、人間の信念をもち続け、貫くことはもう一つの困難としてある。

世界に否応なく影響された、あるいは影響されていなくとも、少なくともその世界を意識させられた私という窓を通して、やはり何かを他から学び続けるという態度、そしてそのような信念のなかに、新しい在り方を見いだすことができないだろうか。

人としての自らの心と身体の不調は、他から大きく影響されやすい状況下にあるからあまりよい状態とはいえない。できるだけ不調である状態を最小限にするのがよいのだが、どうもうまくいかないときは大抵、心と身体が疲労していることにあとで気付く。

だが疲労ということは必ずしも悪い状況ともいえない。人間の疲労は生そのものを露呈している場合もある。そういう疲労のあり方であれば、必ずしも他人を嫌がらせなくてすむこともあるし、疲労が告白されて身体がそれを現前に暴露してしまうとき、かえって他者が率先して助けてくれることさえある。また他者のそういった疲労感を感じることにおいて、他者の役に立とうという態度もまた新たに可能かもしれない。

疲労することや疲労されられることから脱却しようとあせったり、過度な鬱憤ばらしをしようとせずに、疲労の仕方を学ぶことのなかにも積極的な何かがあるのかもしれない。そして、それは病というものとどうつきあうかという、誰しもやがては経験することと似た方法なのかもしれない。