熊野 kumano (4) 2010
吉田兼好の徒然草を契機としていくつか。
人が確かな息をしだす場所、だが息をするとは、日常にはあまりにおぼろげな気がつかない自然な運動。何気なくそうと意識せずも確からしいからこそ浮かびあがるのだが、確実には確かとも言えないような現実と幻想の接点としての痕跡、記憶の連鎖していく運動をたどるような場所へ開かれていくために、はじめの音がある。徒然草のはじまり、その序段の言葉のはじまりにそのことをみてとれるだろうか。詩が音楽性を含まなければ、詩は記憶から遠ざかる。音楽や写真が詩性を含まなければ、そこに記憶は容易に宿ろうとはしない。徒然草はこのような確からしくもあり確からしくもない場所に書かれている。
記憶の痕跡は意図されたものと意図されないもののあいだに浮きつ沈みつ、音の光に照らされた心の磁場が瞬間にひらかれた空間に映されて、つじつまのあわない徒然草、その劇場を演ずる言葉のように、台風がきてもやっと灯っている蠟燭の火のようにうごいてゆき、しまいには音の痕跡がなくなる、音楽は消える。だが記憶、みえずきこえないが、何ものかが確かに残響や残像としてそこにのこっている。音楽という経験の凝縮された時に広げられた空間を歩きながらうごき、音の響きに夢見られた現実を掠めとりながら、響きの死のなかにのこされた何かが、静寂のなかにみえない輪郭をおびて浮き彫りにされ、音楽のやんだ今ここに目覚めている。それは確からしさによって浮かんだ不確かな何ものかの軌跡、その運動によっていまここに確かにあらわれた、ものごとの痕跡。それは言葉では言い表せない。
写真をとったとき、もうその過去はやはり記憶でしかなく、紙に写し出された写真のような影を残して音楽は去ってゆく。そして撮られた写真も過ぎ去った音楽も現実ではない。音楽が響いている時間、静寂が幻想のなかで音に象られて、生きた現実の記憶の息を微かにしている。写真と音楽が、いくども呼び起こされては消えていく記憶をたどり動きを象っていく、己が隠れつつも自ずからあらわになる行為であるならば、一方でその記憶の住処こそが、日常の徒然なる言葉であり日々の行いということになるだろうか。写真は言葉そのものではなく、音楽もまた言葉そのものではないが、時間が凝縮され空間に開かれた写真や音楽は、このような記憶をたどりながら時間と空間の隙間の迷路を分け入るような、徒然の言葉によってしか語ることもまたできない。
今年は災害続きであるが、この台風の中、このようにいま徒然のように思いつきで書いてみても、その時出てきた言葉をそのままつかまえてその場で文にしていくことは、並大抵のことではできない。即興的にしかも的確に心にあることを表現することはかなり難しい。作家といえどもそういう文を書く作家は意外と少ないだろうと思われる。日ごろ書いているが故にやっとできること、書いていなくても心がけある行いを行っていることによって持続されるもの。それは演奏することとよく似ている。徒然草の音楽性はこのような即興性にもあるのではないだろうか。